- 始まり
- 古くから友人同士であった才気あふれる映画カメラマンのアウグスト・アーノルドとローベルト・リヒターは、映画・テレビ産業に革命を起こす会社を設立しました。それがARRIの始まりです。二人は中学時代に出会いその時から互いの中に技術に対する熱い情熱とひらめきを感じていました。若い頃には、こづかいの足しにするため共に自転車を修理したり、街の電気店で働き収入を得るなど、この頃からすでにエンジニアとしての片鱗をうかがわせていました。やがて、二人の間には友情が芽生えると共に、この時代に新たに生まれた“映画”という発展途上の技術に興味を持ったことが、ARRIの歴史の始まりとなりました。
- 1915年
- 兵役前の訓練で二人はメスターニュース映画で働くカメラマン、マルティン・コップと出会います。その出会いをきっかけに”動く画”という新しいメディアの虜となり、やがて二人は運命的に出会ったこの"動く画"こそ、真の情熱を注ぐにふさわしい仕事であることに気づきます。コップのもとにおしかけてドキュメンタリー撮影で助手を務めるかたわら、コップに対して映画産業に関するありとあらゆる疑問をぶつけ質問攻めにしました。撮影のない時はいつもラボで過ごし、斬新で面白い映像を撮影する新たな技法を見つけるため、既成概念にとらわれず日々研究を重ねました。やがて、こつこつ貯めたこづかいで中古のアーバン35mmカメラを購入。彼らは自分たちの持てる知識をフルに活用してカメラに様々な改良を加え、そのカメラによってフリーランスカメラマンとしての名声を確立していきました。
- 1916年
- 二人はミュンヘンの片田舎で手に入れた中古の古い映写機を解体し、取り出した種々のスプロケットと駆動部品を使って最初のフィルムプリンターを設計・製造しました。アーノルドとリヒターは1917年に正式に会社を設立し二人の名字にちなんでARRIと命名。ミュンヘンのテュエルケン・シュトラッセに小さな店を構えました。
(現在、住所こそ同じですが会社の規模は遙かに大きくなりARRIの国際本部がこの場所にあります。)
- 1917年
- アーノルドとリヒターが数台のフィルムプリンターを販売することで最初の成功を手にするまでそれほど時間を必要としませんでした。また、二人はエンジニアとして会社に引き入れたミヒャエル・コップとペーター・オスターマイヤーを手伝うことで、膨大な技術的知識と専門技術を習得することができました。
- 1918年
- 二人はシェリンク・シュトラッセのヴァイス-ブラウ・スタジオで当時の照明技術を学びました。
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同年9月に二人はフレッド・スタンツ監督と共にミュンヘン郊外の渓谷で商業映画を初めて撮影しました。その時撮影されたウェスタンスタイルの劇映画「Black Jack」は商業的に成功。この作品の成功が二人にとって映画業界で初の成功となりました。彼らの初期の作品の多くは当時人気のウェスタン劇映画で、合計100本ほど撮り続けました。「The Yellow Strangler」、「Texas Fred's Honeymoon」、「High Voltage - Caution! Danger!」と言った作品がそれに当たります。二人にとってこうした現場体験が、既存製品の改造や自分の工房で製造する全く新しい製品の設計に、ますます拍車をかけるきっかけとなりました。
- 1920年
- 最初の独立作品「列車強盗」と「死のカウボーイ」をパテのカメラで撮影しました。これらの作品は商業的に成功すると共に、自主制作だったため効率よく大きな収入を得ることができました。これによって彼らは更に改良したフィルムプリンターの製造をすぐに開始しました。イタリアの製作者がまず12台を注文し、後に12台を更に追加注文しました。こうして、映画制作で稼いだお金を元手に、最初のフィルムカメラと照明製品を設計・製造する資金を得ることに成功しました。
- 1924年
- ARRIは最初の照明装置(多面反射鏡タイプ)の生産を開始。また、航空機用エンジンを動力とする移動式発電機を設計しました。こうした先端技術開発と共にフィルム現像ラボの拡張、フィルムプリンターの改良、開発室の設置などを実現しつつ、小さな会社ながら急速に成長を続けました。
- 最初に開発したカメラ“KINARRI 35”は手回し式の35mmカメラで、標準フィルムを100ft収納可能な筐体でした。製造の合間にカメラをカメラマンに有償で貸し出し、販売と機材レンタル・ビジネスを統合するというアイデアを生みました。それがやがてARRI Rental Groupとなりました。
次回:「1930年代〜1950年代」へつづく...