プロフィール
1964年生まれ。広島県広島市出身。早稲田大学政治経済学部卒業後TBS入社。テレビドラマでは『愛していると言ってくれ』、『ビューティフルライフ』、『GOOD LUCK!!』、『逃げるは恥だが役に立つ』、『カルテット』などの話題作を数多く演出。また、映画監督として『いま、会いにゆきます』、『ハナミズキ』、『麒麟の翼』、『ビリギャル』など多くのヒット作を手掛ける。
7回目を迎えるUser’s Voice。登場いただくのはTBSドラマ制作部の土井裕泰ディレクター。「恋ダンス」ブームを巻き起こした『逃げるは恥だが役に立つ』、さらに軽井沢を舞台にした不思議なストーリーで多くの視聴者を引き込んだ『カルテット』など、話題のドラマを続々世に送り出すヒットメーカーです。若者のテレビ離れなどが指摘されるなか、ドラマのつくり手は今、何を思い、何を感じているのか。自らの歴史を振り返りながら、ドラマづくりの裏側の話をお聞きしました。
少年時代、
映画は常に身近にあった
―― | 大きな話題となった「逃げ恥」(『逃げるは恥だが役に立つ』)。数々のドラマ賞を獲得した『カルテット』など、土井さんが演出を手がけた作品は常に視聴者の心をつかみ、確実に数字(視聴率)に表れています。今日は、そんなヒットメーカーの土井さんが“いかにしてできたか”を根掘り葉掘り伺っていきたいと思います。 |
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土井 | ええ、実家は広島市内。歩いて5分以内にデパートとかがある街の中心部です。地方出身というと田んぼや野原が広がる田園地帯を想像されたりしますけど、僕の故郷の原風景は繁華街。そこを自転車で走り回るのが日常でした。近所に住む同級生は商売をやっている家が多かったかな。それから裁判所なんかの官舎に入っている子もいました。東京だと住んでいる地域でライフステージがほぼ同じって感じがあるけれど、地方の都市部ってバラエティに富んでいて、いろんな子がいた。そこからたくさんの刺激を受けた子ども時代でした。 |
―― | なにげに“都会っ子”だったわけですね。 少年時代に何か夢中で取り組んだスポーツとか、部活のようなものは? |
土井 | 部活とかはあまりちゃんとやっていないんです。夢中になったのは映画。家が繁華街にあったから近所に映画館がたくさんあって、期末試験などが終わって時間があるときは映画館に入り浸っていました。封切館、2本立ての名画座など、当時はたくさん映画館があったから、映画は僕にとってすごく身近なもの。逆に今はそうした市内の映画館はほとんどなくなってしまったようで、ちょっと寂しい気がしています。 |
—— | テレビはどうでしたか? |
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土井 | 1964年ということは、僕は東京オリンピックの年の生まれでもあります。つまりカラーテレビの普及とともに育った世代です。当然、家の中心にはテレビがあり、歌番組、ドラマ、コントなど、“テレビっ子”といっても良いくらい、どっぷり観ていましたし、大好きでした。 |
―― | そうした映画やテレビから、映像の世界への興味が徐々に形作られていった‥‥という感じだったのでしょうか。 |
土井 | いや、高校の学園祭で仲間と8ミリ回して自主制作映画をつくったりはしていますけど、「映像の世界に入っていきたい」「将来はこういう世界へ」という強い気持ちがあったわけではないです。8ミリ映画にしても学園祭で何かやると学校から補助金が出るということで、「何かやろうか」と仲間内で盛り上がり、たまたま友達の家に8ミリカメラがあったので「よし映画つくろう」となったもの。それまで8ミリカメラをほとんど触ったことはないし、撮ったこともない。構図とかカメラ割りなんて概念も分からず、ほとんど衝動的に撮っていました。一応、脚本は僕が書いて、演出的なことも僕が中心にやった。メンバーもそんなに多くないから当然出演もしましたね。 |
―― | その記念すべき第一回監督作品は今どこに?観たいです!(笑) |
土井 | 実家を探せば出てくるとは思いますけれど、学園祭での上演以降、恥ずかしさもあって一度も観ていないです(笑)。 |
―― | かなり興味津々です(笑)。高校時代に8ミリ回して映画をつくったというと、映像の世界への相当な興味があったと推測しますけど、実際はそれほどでもなかったんですね。 |
土井 | 一緒に映画をつくった同級生の中には、CMディレクターになった者もいて、僕を含めればこの映画に関わったメンバーから、2人も映像の世界へ入っているわけですが、当時は高校生の遊び。まさか将来、今のような仕事をするとは夢にも思いませんでした。 |
―― | では、土井さん自身が映画やテレビの世界、その制作の世界に興味を持った最初のきっかけになったものは何でしょうか? |
土井 | 1979年に公開された「太陽を盗んだ男」って映画ですね。監督は長谷川和彦さん。実は長谷川さんは広島の出身で、姉の通っていた高校の先輩だったんです。沢田研二さんが演じる高校教師が一人で原子爆弾をつくっちゃうというショッキングな映画で、その内容に衝撃を受けたのと同時に、「これを同郷の人がつくったのか」って思ったのが、初めてスクリーンの向こう側にいる “つくる人”を意識した時でしょうか。 |