『ものづくり』への憧れ
「ずいぶんのどかな場所にあるんだな」
製造部に所属する和田京示は、初めて横浜の郊外にある工場を訪れた時のことを今でも鮮明に覚えている。1978年のことだ。現在の工場最寄りである市営地下鉄駅はまだ全線開通しておらず、港北ニュータウンへの入居開始は数年先。周辺にはコンビニなどの店舗もなく、緑豊かな丘の中腹にポツンと研究所を思わせる佇まいの建物があった。その建物は外観も今とは違い敷地には体育館のようなドーム型の屋根を持つ建物も併設されていた。
「ここで最先端の映像機器がつくられているのか、なんて考えながらドームを見上げたんじゃないかな」
当時の横浜工場。奥にドーム型の建物が見える。
和田は鹿児島県奄美大島の生まれ。海と山の豊かな自然に囲まれ、野生児的な幼少時代を送ったのだろうと想像したが、本人曰く「それとはまったく逆」。生まれた場所はマングローブの原生林が広がる小さな集落だったが「幼い頃から機械や電気が大好きで、近所から壊れたテレビをもらってバラしては真空管を取り出して自作のアンプやラジオをつくるのに夢中。机の引き出しには抵抗などの電子部品がゴロゴロしていた」子ども時代だったという。
鹿児島の普通高校を出ると東京職業訓練短期大学校※1に進学。職訓短大はいわゆる大学の工学部に似たカリキュラムを持つが、工学部に比べ『ものづくり』教育への比重が高い。学校の理念の一つには『科学・技術・技能の融合』があり、日本が誇る生産技術を後世に伝え、継承する人材を育成するための教育機関だ。
ここでものづくりの基礎を学んだ和田は、就職活動を間近に控えたある日、教員から「こんな会社があるけど興味あるかい」とナックからの募集を知らされる。「正直、それまで名前も存在も知らない会社だった」が、調べていくうちに、宇宙開発事業団(現在の宇宙航空研究開発機構)の地球観測情報処理システムの一翼を担うなど、最先端の映像機器を送り出していたナックに強い興味を抱くようになった。
「ものづくりといっても生産ラインに埋れてルーティンワークをすることには抵抗があって、生産の視点から製品開発にも関われるような、そんな仕事がしたいと思っていました。ここならそれができるんじゃないかと思ったんですね」
ナックを初めて訪ねた約半年後の1979年春、和田は社員として横浜工場の門をくぐる。
※1 現在の職業能力開発総合大学校。